3.11の記憶
9年前の3月11日のことは今でもはっきりと覚えている。
私はこの日、店頭の応援販売で大阪のなんばにいた。
14時半過ぎ。
ちょうど昼休憩に入ったところで、カフェの席でランチが来るのを待っていた。
オシャレなカフェで、天井までのガラスの2枚壁の間にはカモメのモビールが吊るされていた。
ふと何かを感じて、それまで見ていたスマホから目を上げてカモメを見ると、揺れている。
2枚のガラスに挟まれた空間に風は入らない。
「?」と思った途端に、揺れた。
体感で恐らく震度3ぐらいか。
ここは比較的新しいビルの中で、恐らく大丈夫だとは思ったが、それでもイスに座った自分の半身が揺らぐのを不安に感じていた。
思ったより長く揺れているので心配になり、自店に電話をかけるとスタッフが不安そうな声で「大丈夫です」と答える。
そんなやり取りをしている間に館内放送が入る。
耐震構造の当ビルは安全だと。
避難指示があった場合は従ってくれと。
どうやら東北の方で大きな地震があったとのこと。
電話を切ってネットで検索すると、東北で大地震が起きていた。
震度7の文字を見て震えた。
阪神大震災と同じ強さ。
脳裏に横倒しになった高速道路や、火に包まれた街の記憶がフラッシュバックして動悸が止まらない。
「これは大変なことになった。」
カフェの店員に頼んで一旦お店を出て、自店に戻る途中にも余震が来た。
エスカレーターは止まっていた。
店頭ではラックにかかった商品がゆらゆらと揺れているが、棚の上に置いた物が落ちるようなことはなかった様子。
本社に連絡を入れるも、情報が交錯していて具体的な事は何も聞けなかった。
とりあえずカフェに戻り、ネットでニュースを見ながらランチをかき込み自店に戻る。
その間にも余震が何度も来る。
ここは大阪。
日本列島を半分挟んだこの距離で、はっきりと伝わる揺れ。
いかに大きな地震だったかが改めてわかる。
ニュースを追いたいが仕事中ではそういう訳にもいかない。
その後、本社からは何度か連絡が入ったが、自社関連での被害は今のところないが、今後も状況を見るとのこと。
一旦揺れが収まると、大阪は通常の落ち着きを見せていた。
大津波が起こった事を知ったのはその日の夜、家に帰ってからだった。
繰り返し流れるニュースの映像を見て泣いた。
翌日は土曜日で会社は休みだったが、緊急会議のために本社に入ると、新卒担当の人事がバタついている。
この年の新入社員の入社前研修は3/11〜13の3日間。
来年度の新入社員が全国から集まり、関西近郊の研修施設でカンヅメになって研修を受けている。
日中はスマホを取り上げられて使えないが、その日のカリキュラムが終わると返される。
11日の夕方、急遽東北方面から参加している新入社員を別室に集めて大きな地震があったことを伝え、その場で家に安否確認を入れさせた。
10数人いたうちの半数ほどが家に電話が繋がらない。
泣き出す者、貧血を起こす者、今すぐ帰りたいと訴える者をなんとかなだめて自室に戻した。
翌日の本社での緊急会議では、家と連絡が取れないメンバーを帰らそうにも交通が止まっていて帰れないこと、研修は続行しその後は会社でホテルを押さえて待機させることなどが決まった。
数日後、帰宅を強く希望するメンバーから優先的に全員がとりあえず帰宅するも、その後入社辞退が数名出た。
家族が亡くなり、家も無くなり、こんな時に自分だけ地元を離れて就職どころではなくなってしまったということ。
その後の混乱は歴史に残っている。
神戸にある阪神大震災の追悼モニュメントには連日蝋燭が焚かれ、手を合わせる人が後を絶たなかった。
阪神大震災では復興までに約20年かかった。
あれからまだ9年。
東北は今もまだ復興への長い道のり半ばだ。
その道のりは長く苦しいことを知っているから下手なことは言えない。
数少ないできることを模索しながら、心の中でただ祈っている。